「オレンジフィルムガーデン」最終話 



 目を開くと、天井が淡いオレンジ色の光の線が走っていた。ベッドの上から体を起こす。不思議と目覚めは良かった。頭もしっかりと働いている。
 光は、カーテンの隙間から差していた。立ち上がってカーテンを開くと、鮮やかな朝焼けが部屋の中に広がる。いつの間にか、梅雨は明けたようだ。

――夢が、終わった。

 あれは、ずっと自分の心を偽り続けてきた成れの果てだ。自分の殻に閉じこもるための、自分だけの世界。そこは本当に居心地が良くて心が安らいだ。
 そんな逃げ場所は、もう存在しない。
 視界いっぱいに飛び込んでくる朝の光は眩しくて、本当に眩しくて、目に染みたのかもしれない。僕は少しだけ涙をこぼした。



* * *



オレンジフィルムガーデン



§最終話(第16話)§



* * *



 いつものようにバスに乗って、いつものように通学路を歩く。そして、昇降口で靴を履き替え、少しだけ考えて、教室の方へと歩いていった。もう、保健室に行く理由はなくなった。
 チャイムぎりぎりに教室に着くと、教室内は慌ただしい喧噪に包まれていた。必死に課題を写す者、おしゃべりに興じる者。そんなクラスメイトの間を縫うように、自分の席に腰を下ろした。
「あっ、永野。もう学校に来ても大丈夫なんだ」
 隣から聞こえてきた声に顔を向けると、井上さんがホッとしたように表情を崩していた。
「ビックリしたよ。長い間休んでたのに、昨日の放課後に突然現れるんだもん。私、幽霊かと思っちゃった。もう体調は良いの?」
「体調?」
 話が見えない。僕は毎日学校に来ていたし、学校を休んだことはなかった。保健室に行っていたことを知らずに、僕が体調を崩して休んでいるとでも思っているのだろうか。
「はーい、みんなー、席についてー。ホームルームはじめるよー」
 その時、教室に入って来た元気な声によって、僕は井上さんに事の説明をする機会を失った。担任の渡辺先生は、教室中をぐるりと見渡すと、僕の方を見てニコッと笑った。
「おっ、永野くん。無事退院出来たんだねー、おめでとう」
「……退院?」
「ちょっと後で話があるから、あとで一緒に職員室に来てね」
「……は、はい」
 先生の強引な話し方に、僕は何も言い返すことが出来なかった。そして先生は、ぱぱっと朝の連絡事項だけ述べて、僕を引っ張るように職員室へ連れて行った。

「先生、僕が入院って、どういう事ですか?」
 教室とは打って変わって、静かな職員室。僕は転校初日のように先生の椅子に座らされて、コーヒーを飲んでいた。
「何も言わなくて良いの」
 僕の問いを、先生はニコッと笑って遮った。
「若いうちは色々あるからねー。そういうのを理解してあげるのが大人の役目ってモノじゃない。分かる?」
「は、はぁ……」
「あー、いいなぁ、青春だねぇ。私も若い頃に戻りたい。知ってた? 私もここの卒業生なんだよ。その頃はね――」
 渡辺先生は完全に語りに入って、僕の事なんてお構いなしに思い出話に大輪の花を咲かせた。そして一時間目の授業が始まる直前になってようやく、
「あ、ちなみに、みんなには永野くんは体調を崩して入院してる、って事にしておいてあげたから。いいよね?」
 などと勝手なことを説明しはじめた。僕が反論する暇もなく、先生は笑って僕の肩を叩いた。
「ま、若いうちは悩めるだけ悩んだ方が良いよ。きっと将来の糧になるし、大人になったら悩んでる暇なんてないんだから」
 とりあえず、何かもの凄い勘違いをされている、ということは分かった。けれども、先生には先生なりの考えがあってこういう扱いにしたのだろう、ということだけは理解した。
 悪い先生ではないな、と思った。相当ズレてるけど。この先生の元なら、もしかしたら楽しくやれるかもしれない、なんてことを少しだけ思った。

 久しぶりに受ける午前中の授業は、頭に入らなかった。長い間授業には出てなかったし、家での勉強もずっとしていなかった。だから授業内容には全くついて行けなかったので、僕は諦めて考え事をすることにした。
 思えば、夢に出てきたヒロは、しきりに「クラスメイトと打ち解けるべきだ」と言っていた。ということは、僕自身がそう願っていたのだろうか。無意識にもう一人のヒロを作り上げてまで、自分自身に言い聞かせたかったのだろうか。
 隣の席を見ると、井上さんが黒板に書かれた英文をせっせとノートを取っていた。
――例えば、そう。休んでいた間のノートを貸してくれ、などと言ってみてはどうだろうか。自分の方から少し歩み寄ってみれば、彼女ならこんな僕のことをまだクラスメイトとして受け入れてくれるかもしれない。
 今までの僕は、結局その一言が言えないでいた。つまりは、僕には勇気がないのだ。一歩踏み出す勇気が。傷つくかもしれないと、事前にバリアを張って。その逃げ道として、夢の世界を作ってしまった。けれども。

『なんで? 仲良くなった方が楽しいに決まってるよ』

 ふと、あいつの言葉を思い出した。そうだ。もうそんな逃げ道はない。僕はもう、こっちの世界で生きていくしかないのだ。あれだけ、もう一人のヒロに背中を押して貰っておいて、まだ迷うというのか。そんなままじゃ、いつまでたっても、本当のヒロに顔向けできない。

 午前中最後の授業が終わった。僕は覚悟を決めて井上さんに声をかけた。
「あの……井上さん?」
「ん、何?」
 井上さんが、振り返る。思えば、こうやって自分から誰かに話しかけるのなんて、いつ以来だろうか。高鳴る心臓を、必死で鎮めて口を開く。
「えっと、さ。休んでた間のノート、見せてくれないかな?」
 僕が勇気を出した一言に対して、井上さんは「いいよ、はい」と、あっさりとノートを手渡してくれた。
 ああ、こんなことでいいのか。
 僕が拍子抜けしていると、井上さんがニコッと笑う。
「ねえ、永野。今日もお昼は購買?」
「え、うん」
「じゃ、学食行かない? 永野、まだ行ったことないでしょ。退院祝いに奢ってあげるからさぁ」
「いや――」
 反射的に、まず否定の言葉が出ようとする。違う、それじゃダメだ。もう覚悟を決めるんだろ? そう、自分に、もう一人の自分に問いかける。
「――いや、俺が奢るよ。ノート貸して貰うお礼」
「え、いいの!? やった、じゃあ行こっ!」
 嬉しそうにはしゃぐ井上さんを見て、ようやく緊張が解けた。僕の味方になってくれそうな人は、確かにいる。それが嬉しかった。
「ねえ、直樹。アンタも一緒に学食行かない?」
「あん?」
 井上さんが声をかけた方向。松永が、鋭い目つきで振り返る。その瞬間、胸の中に冷たい震えが走った。
「いいよ、俺は。そんな奴と一緒じゃメシが不味くなる」
「またアンタはそういうことを言う!」
 目をつり上げて怒る井上さんを尻目に、そういえば松永に「本音を出せよ」と罵倒された出来事を思い出した。あれは堪えた。
 だから。それに堪えてやろうと、ちょっぴり悪戯心を忍ばせて、僕は口を開いた。
「そっか、よかった。俺も昼飯くらいゆっくり食べたいんだ。食べてる途中に胸ぐら捕まれたくないからな」
 松永の鋭い目が、一瞬だけ丸くなった。井上さんも驚いた様子で僕のことを見ている。ふん、と小さく鼻を鳴らした松永は微妙に顔を歪めて、それっきりそっぽを向いてしまった。
「行こう、井上さん」
「あ、うん」
 困惑する井上さんを促して、僕は教室の外に出て学食の方へ歩き出す。相変わらず驚いた表情の井上さんが僕の方をまじまじと見ているので、「何?」と問いかけた。すると彼女は少しだけ目を細めた。
「びっくりした。永野も結構言うじゃん」
「今までは猫をかぶってたんだよ」
 にゃー、と猫の声まねをしてみせると、井上さんは「面白くない」と言いながら声を出して笑った。
「でも、さっきの直樹の顔、見た? あれ、実は内心喜んでるんだよ」
「本当に?」
 僕には苦虫を噛み潰したような表情にしか見えなかったが。
 時間はかかるかもしれないけれど、松永とも上手くやれたらいいな、と少しだけ思った。

 学食はそれなりに多くの人で溢れていたが、座れないほどではなかった。僕はカツカレー、井上さんはオムライスを注文して、奥の方の席に座った。僕がカレーを口に運ぼうとしたとき、「そう言えば」と井上さんが口を開いた。
「昨日、千尋と連絡取ってみたの。永野が昨日突然名前出すもんだから、気になっちゃってさ」
 フォークを持つ手が思わず止まった。小学校の頃に別れたきりで、その後は遠目に見た姿と、声しか聞いたことのない、ヒロ。なんとなく、重要な話のような気がして、僕はフォークを皿に置いて井上さんの話に臨んだ。
「最初にお互いの近況報告とかを話してたんだけどね、永野が私のクラスに転校してきた、ってことを話したら千尋、『私、最近ユキの夢をよく見るの』って、もの凄い驚いてた」

――もしかしたら偶然じゃないのかもしれないけど

 本当に、偶然じゃなかったのか? そういう意味だったのか? なあ、ヒロ。
 いろんな思いが、いろんな場面が、まるでフィルムのコマ送りのように、一気に頭の中に広がった。心の中が熱い。痛い。苦しい。溢れてはみ出しそうになった感情を必死でせき止めて、僕は何とか言葉を紡いだ。
「……まだ俺のことユキって呼んでるんだ」
「そうみたいだね。嬉しい?」
「恥ずかしいよ」
「あはは、そっか」
 結局。僕は胸がいっぱいになってしまって、頼んだカツカレーを少し残してしまった。

 それから少し日が経った今でも時々、夢の中であの世界が現れることがある。でも、そこはもう光が溢れる眩しい世界ではない。周囲は黒く、塗りつぶされてしまっている。そんな中、僕一人にだけピンスポットライトが当たっているかのように、足下を照らしている。
「なかなか、上手くいかないもんだな」
 僕はそこに腰を下ろす。
「井上さん……いや、夕子か。夕子は親切に仲良くしてくれてるし、周囲にも気を配ってくれてるんだけどな。あ、そうそう、この前『井上さん、とか他人行儀な呼び方はやめてよ。昔みたいに夕子って呼んで』って怒られたよ。でも、なんだか照れくさくてさ」
 何もない、闇の方へ向かって語りかける。独り言のように、自分自身に問いかけるように。
「松永なんて、夕子と話してるとこっちの方を睨んでくるし。あれ、絶対夕子に気があるよな。それとも、仲間に入れてほしがってるのかな。どっちだろう」
 声は返ってこない。でも、それで良いんだ。
「でも、まあ、頑張ってみるけどな」
 そうして僕は、自分自身へ届かない手紙を出すように、思いを綴って、現実の世界へと戻っていく。
 学校の生活でも、ぎこちないながらもクラスのみんなと会話らしい会話をするようになったし、最初はどんな言葉にも殆ど無視していた松永も、少しずつ言葉を返してくれるようになった。いつまでこの土地に居られるか分からないけれど、悔いを残さないくらいには仲良くなっておきたい。
 昔の出来事を引き摺っていない、といえば嘘になる。今でも、怖い。けれども、前に進んでいない訳ではなかった。

 するとある日、昼食を食べていると夕子がこんな誘いを持ちかけてきた。
「あれから頻繁に千尋と連絡取ってるんだけどさ、今度の土曜、一緒に遊びに行くことになったの。それで、千尋が『ユキと会いたい』って言ってるんだけどさ、永野も来ない?」
 僕は少し考えてから、オッケーの返事を出した。夕子も嬉しそうに笑ってくれた。
 そして――

 夕子からの電話で、とりあえず昼ご飯を食べながら、その後どうするかを決めよう、とのことで、僕は待ち合わせに指定された近所のファミレスに向かって歩いていた。
 正直に言えば、緊張している。逃げ出したい気持ちもある。それでも、会いたい、という思いが強かった。
 もう、昔のように石を蹴りながら町の中を一周したり、公園ではしゃぎまわったりは出来ない。僕も変わったし、ヒロもきっと変わっている。それでも、今でも僕のことを「ユキ」と呼んでくれていることが、昔と繋がっていることを証明してくれている。
 人と深く関わり合うことが出来たなら、例えすり減って細くなろうとも、人と人とを結ぶ糸はそう簡単に切れたりはしない、ということが分かったのだ。

 道すがら、僕はヒロに再会しての第一声をなんと言おうか、と下らないことを考えた。久しぶり、では簡単すぎるような気がした。綺麗になったな、などとキザな台詞は言えない。どれもこれも相応しくないように思えて、頭を捻らせていると、

『まずは、押し倒してごめん、じゃない?』

 と、どこからか声が聞こえたような気がした。驚いて振り返っても、そこに人の姿はない。空耳か、それとも――。
 思わず、苦笑いが浮かんだ。そう言ったら、ヒロはどんな反応をするだろうか。意味が分からない、といった表情を見せるか、それとも顔を真っ赤にするか。
 この角を曲がれば、少し向こうに待ち合わせ場所が見えてくるはずだ。考え事をしながら歩いたせいか、時計を見ると待ち合わせ時間を僅かに過ぎている。ヒロは、もう着いているだろうか。先に席に座って氷をガリガリと噛んで待っているかもしれない。
 そんなことを想像しながら、道を曲がると、ジリジリと痛い太陽の光が照りつけた。見上げれば、青い空の上を雲が気持ち良さそうに泳いでいる。耳を澄ませば、少し早い蝉の鳴き声も聞こえてくる。
 夏の到来を確かに感じながら、僕は彼女との再会に胸を弾ませた。

<了>

「オレンジフィルムガーデン」第15話 



 もう現れないかも知れないとも思っていたのだが、ヒロは――いや、奴はその日の夜に現れた。
「今日も、随分と遅かったのね。……まったく、デートで女の子を待たせるなんて、良い度胸してるじゃない」
 土手に座っていたソイツは、芝居がかった口調でそう言うと、わざとらしく頬をふくらませて見せた。しかし、すぐに姿勢が元に戻る。一度だけ肩をすくめて、観念したように呟いた。
「なーんて。もう全部ばれちゃってるんだよね」
 僕はゆっくりと奴に向かって歩く。
「そうだな」
 独り言のように、小さく呟いた。もう、心はしぃんと落ち着いている。奴のことも、自分のことも、全てひっくるめて、受け止める覚悟はできた。
 だから、ここで確固たる決着をつけなければいけない。

――この長い夢の。



* * *



オレンジフィルムガーデン



§第15話§



* * *



「さてと、何から聞きたい?」
 奴はあきらめにも似たような笑顔で、僕を見る。聞きたいことは、そんなにない。ただ、確認がしたいだけだった。
「……最初はな、やけに俺のことを理解してくれるな、って思ってたんだ」
 今思い起こせば、苦笑いしか浮かばない。ガタガタとすきま風の吹いていた心に、まんまと忍び込まれ、盲目と言っていいほどに信じ切っていたのだから。
 僕が自嘲気味に笑うと、奴もクスリと笑った。
「本当は、もうしばらくは騙し続けられると思ってたんだけどね」
 少しも悪びれる様子もなく、そんなことをしれっと言ってのける。
「薬を使われ出した辺りから雲行きは怪しかったんだけど、まさか本当のヒロに会っちゃうとはね。完全に予想外だった。あれが決定打だったね」
 そう、屈託なく笑う。
「あれさえなければもうちょっとデート楽しめたんだけどねー」
「バカ言え」
「うわー、それが初恋の相手に言う台詞ぅ?」
 僕はきっぱりと言い放つ。
「お前はヒロなんかじゃない」
 そうだ。なぜ気がつかなかったのだろう。本当に好きなんだったら、気づいてもよかったはずなのに。


「お前は――俺だ」


 ヒロの姿をした「奴」は、ただニヤニヤと笑っていた。無言で続きを促す。
「おかしいと思ったんだ。なんで夢の中にしか現れないヒロが、俺の現実での出来事について知ってるんだろう、って」
 例えば「次当てられるよ」と指摘されたとき。井上さんに対する態度に注意を受けたとき。薬を使用したのがばれたとき。ヒロは現実での僕の行動も把握していた。
 にも関わらず、学校での様子を聞いてきたり、僕がヒロに抱いた不信感についても気づいている素振りはなかった。矛盾だらけで、曖昧だ。
「それは、お前が俺だから。だから俺の現実での様子を知っていて当然だし、都合の悪い部分は知らない振りをしていればいい。違うか?」
「んーん、違わない」
 そう言って、奴は首を振る。
「だからだよな、お前はいつだって俺がかけて欲しい言葉を口にしたし、俺のことも理解してくれていた。でもそんなの当たり前だ、自分のことなんだから」
「うん、正解。ほぼ模範解答だよ」
「……ほぼ?」
「少し、私の話を聞いてくれる? ……って言っても、私はユキそのものなんだから、敢えて言う必要はないんだけど」
「……聞くよ」
 奴は一度大きなため息をついて、そして何か思案するように空を仰いだ。様々な色が混じり合って出来た、水彩画のような空。気のせいか、色が濁っているように見えた。
「ユキ、私が最初にした夢の話、覚えてる?」
「……何だったけな」
「夢って無意識の部分が現れるんだよ、って言ったやつ。いつも考えてることや、頭の中にハッキリとあることは夢の中には出にくくて、逆に昔の記憶とか、普段胸の奥に押し込めている思いとかが夢になりやすいの」
「ああ、覚えてる」
「ユキは、いつも自分自身に孤独であることを義務づけてた。そうしなければいけないんだって、強く。でもそれは私……本当のヒロとの別れが原因であって、本当はユキはいつだって理解してくれる人を求めてた。人との繋がりを欲していたんだよ」
 そう言って、最後に「ユキは認めたくないだろうけどね」と付け足した。これが、もし現実のクラスメイトか誰かに言われた言葉なら、即座に否定しただろう。でも、ここは夢の世界。ヒロが……俺が、そう言っている。納得をせざるを得ない。
「だから、ユキは私を作り出した。……いや、作り出してしまった、って言った方が良いかな。夢の中では無意識が何よりも強いから、意識してもどうすることも出来ないもん」
 諭すように囁きかける、ヒロの姿をした僕。
「ユキが抱えていた無意識は大きく分けて二つ。ヒロとの別れを未だに引き摺っていることと、切れることのない繋がりを求めていたこと。その両方を満たすために、だから私はいつだってユキの夢の中に現れた。昔の傷を癒すことと、終わることのない人間関係をつくること、両方を満たすためにね」
 そこまで一気に話し、小さく息継ぎを挟んで、奴はまた口を開く。
「ユキは理解してくれる人を求めていたから、私はいつだってユキが言って欲しい言葉を投げかけた。なんたって私はユキの無意識の部分そのものだからね、とっても簡単だった。だから、しばらくの内はそれで上手くやってこれていた。でも、次第にユキの状況が変わっていく。分かるよね?」
 僕は小さく頷いた。
「過去の傷も癒え、理解者も手に入れた。もう望むものは他にない。そうなると、今度はそこに依存が生じはじめて、ユキはいつもいつも眠るようになった。だから私も、ユキの都合が良いように、心臓が悪くて入院してる、って設定にされちゃったけど。でも、それはユキにとって必要な良い訳だったの。本当は、このまま依存してしまってはいけない、って分かりはじめてたから。最初に薬を使い始めた時、私怒ったよね。アレは、無意識の部分でユキが止めて欲しい、って思ってたからだよ」
 覚えている。こんな事をさせるために話したんじゃない、と猛烈に怒られたのだ。あれは、自分自身からのサインだったのだろう。
「まあでも、そこまでならユキは幸せだったんだけどね。でも、現実で本当のヒロに会っちゃった。こればっかりは、ユキにも、私にも、どうにも出来ない偶然だったね。……いや、もしかしたら偶然じゃないのかもしれないけど」
「……どういう意味だ?」
 僕がそう問いかけても、「それは後で」と、ただ曖昧に笑うだけだった。
「もうそこからは坂から転げ落ちるのをただ待っているだけ、って感じだったかな。意識している部分では私の正体を疑っていて、でも無意識の部分ではその考えを否定していた。でも意識と無意識が逆転するのは時間の問題だったし。ま、ユキは最後までそれに抗おうとしてくれてたからね。無理矢理押し倒したことも、水に流してあげる」
 最後に、ヒロの姿をした「奴」は、そう言ってはにかんでみせた。
「……全部、俺が悪かったんだな」
「んーん、そんなことないよ。無意識なんて人が意識してどうこうできる部分じゃないし、ただユキは他の人と少し違った経験をしてきたから、その無意識の部分が強かった。ただそれだけだよ」
「……それは、俺がそう慰めて貰いたいから、か?」
「えへへ、よく分かってるじゃん」
 奴が笑う。それを見て、僕も思わず笑ってしまった。思えば、今日初めてこうして笑ったかもしれない。
「さてと。私が話すべきことはほぼ話したけど。他に何か聞きたいことはある?」
 本当は少しだけ気になる部分があったのだが、僕は首を横に振った。こいつが知っていることは、僕が無意識に内に知っていること。きっと、自分と深く向き合うことが出来たら、自ずと見えてくるだろう。
「そう、よかった。もう夜も明けたし、この世界の寿命も残り僅かだからね」
 奴が、もう一度空を仰いだ。あれほどたくさんの色に満ちあふれて光り輝いていた夢の世界が、徐々に周囲の色を取り込んで黒く変わってきていた。壁に塗られたペンキが濁りながら下へ下へと垂れていくように、ゆっくりと、しかし確実に。
 もうすぐ、夢が終わってしまう。僕の無意識が作り上げたという、この長い、長い夢が。それを寂しいと思うのは、いけないことだろうか。
「ま、いろいろあったけどさ、私は楽しかったよ、結構。ユキは?」
「……そうだな、楽しかったよ、俺も」
 それを聞いて、奴が満足げに笑う。空はすでに黒く塗りつぶされ、見渡す地平線からレンズの焦点が絞られるように、闇が集まってきている。もう、終わりが近いということは、僕にでも分かった。夢から覚めれば、今までと同じ現実が待っている。あの現実が。夢という逃げ場所を失って、果たしてこれから先、うまくやっていけるのだろうか。
「よし、じゃあ最後にとっておきのことを教えてあげる」
 黒く爛れていく風景を背に、奴はとびっきり明るい声を出した。何事かと、僕は顔を上げた。
「私の存在はね、実は全部が全部ユキが作り上げたんじゃないんだよ」
「どういうことだ?」
「私にも詳しくは分かんない。けれど、もしかしたら私の中の一部分に本物のヒロが居るかもしれない、ってこと」
「それも……」
 今、アイツの足下も飲み込まれ、足下から上へと向かって闇が這い上がってくる。
「それも俺の願いか?」
「さあ、どうだろうね。信じるか信じないかは自由だよ」
 下半身を全て飲み込んで、残り僅かというところ。最後の最後に、奴は笑顔で手を振った。
「じゃあね、もう二度と顔見せるんじゃないよ、ユキ」
 そう言って、奴の全ては闇に溶けていった。そして、その姿を目に焼き付ける暇もなく、僕の足下も全て、闇に覆われ――――。


「オレンジフィルムガーデン」第14話 



 朝が来て、僕は機械的に学校へ行く支度をした。バスに乗り、校舎を目指す。一瞬、教室に向かおうかとも思った。今はもう、ヒロに会うような気分ではなかった。
 それでも、授業を受けたって先生達の話が頭にはいるとは思わなかったし、なにより頭が重たかった。脳みその代わりに鉛を埋め込まれたのではないかと思うくらいに、ずっしりと鈍い痛みがある。
 靴を履き替えながら少し考え、結局保健室を目指した。
 保健室の先生は、僕の顔を見るなり眉をひそめた。
「あら、今日は特に顔色が悪いわね。大丈夫?」
「……横になってもいいですか?」
 そういうと、先生が心配そうに頷いた。
 いつも使っているベッドに横になる。眠る気はしないし、授業に行く気にもなれない。だから僕は有り余る膨大な時間で、ひたすらヒロのことだけを考えた。



* * *



オレンジフィルムガーデン



§第14話§



* * *



 思えば、ヒロはいつだって僕の事を理解してくれていた。

『うん、そうだね。ユキは相手の傷も自分の傷のように痛がるから』
『去っていく方も辛いけど、去られる方も辛いもんね』

 僕の待っていた言葉を、それこそ狙い澄ましたかのように口にした。

『うん、わかった。これからは、ずっとユキのそばにいる』

 そんなセリフが心の隙間にスルリと入り込む物だから、僕は不思議にこそ思えど、疑う事なんてちっともしなかった。

『でもね、私はそんな難しいことなんてどうでもいいんだぁ』
『だって、またこうしてユキと一緒にいられるから』

 今、冷静になって考えて、ようやくおかしいことに気がついた。

『寂しくない訳じゃないんだよね』

 ヒロといれば確かに心が安まる。何よりも僕のことを分かってくれていたし、僕だってヒロのことを分かっているつもりだった。

『だから、今はこうやってユキと話している時間が、生きてる中で一番楽しいの』
『……そ、それくらい気付け、ばかっ』

 けれど、それはただの勘違いで、僕はただ自分の理解の範疇でしかヒロを分かっていなかったのだ。

『ちゃんと待ってるから。ユキのこと、待ってるから。だから、明日も忘れないで来て。ね?』

 だから僕は、これからそれを確かめに行く。

『約束したでしょ? ずーっと一緒だって』



 降り続ける雨が原因か、湿気で滑るリノリウムの床を注意深く歩きながら、僕は事務室脇に設置された公衆電話を目指していた。廊下には誰もいない。この雨では部活も出来ないし、そうでない生徒はそろそろ帰宅しているはずだった。
 暗い廊下に、ポツリと赤いランプが光っているのが見える。学校に一台だけ設置された緑の公衆電話だ。学生の間にも携帯電話が広く普及しているため、利用する生徒はまずいない。
 受話器をフックから取ると、震える指で十円玉を投下した。もとより、会話をするつもりは無い。
 そしてポケットからメモの切れ端を取り出して、書かれた番号を順番にプッシュする。残りの数字が減るにつれて、まるでカウントダウンされているような気になった。
 最後のボタンを、迷いを振り切るように押し込む。少し遅れて呼び出し音が聞こえてきた。その音の隙間から、自分の心臓の音が漏れ聞こえた。
 この先に待っているものを、僕はしっかりと理解しているつもりだった。けれど、だからといって怖くない訳ではない。誰にでも死はやって来るものなのに、皆が恐れるのと同じだ。
 呼び出し音が途切れる。硬化が落ち、ブザーが鳴る相手が電話に出た。
「はい、岡本です」
 懐かしい声が、耳元から聞こえた。

 一時間ほど前。帰りのホームルームが終わるのを見計らって、約二週間ぶりに教室に顔を出した。
 教室に微かにどよめきが起こったのが分かった。みんなが僕を見ている。けれど、今は気にしている場合ではない。
 井上さんの席に行くと、彼女も驚いたように目を丸めていた。
「なあ」
 僕は単刀直入に切り出す。
「千尋、岡本千尋のことって、覚えてるか?」
「千尋? そりゃ、中学まで一緒だったから知ってるけど」
 井上さんが少し怯えたように答える。そんな様子にも、今は構っていられない。
「今、あいつどうしてる?」
「隣町の私立高校に通ってるけど……そう言えば、二人って凄く仲良かったよね」
「連絡先、知ってる?」
「え、知ってるけど……永野知らないの?」
「うん。だから教えてくれないかな。どうしても確かめないといけないことがあるんだ」
「……わかった、いいよ」
 少し迷うそぶりを見せたが、井上さんは机から小さなメモ帳を取り出して、千尋の携帯の番号をそこに書き記してくれた。
「ありがとう、助かる」
 短く例を言い、僕はすぐにその場を立ち去った。そして、学校から生徒が居なくなるのを見計らって、公衆電話からヒロの携帯へと電話をかけた。

「もしもし?」
 何も言い返さない電話の相手に、ヒロは何度も問いかける。間違いなく、ヒロの声だった。
 ヒロは長い間入院している訳でもなく、心臓が悪い訳でもない。今も同じ家に住んで、ここより少しだけ偏差値の高い高校へと通っている。それが、結論。
 それでもなお、事実を否定しようとするもう一人の自分がいて、だから僕は引導を渡すようにハッキリと言い放った。

――夢の中に出てきた女は、ヒロではない。ニセモノだ。

 僕の中から、色んな物が失われたような気がした。離さぬよう大事に抱えていたそれらが、幻のように実態のない物へと変わっていく。慌ててつかみ取ろうと藻掻いても、幻影は指の間からすり抜けていく。
「もしもーし。あれ、電波が悪いのかなぁ……」
「……すいません、間違えました」
 そう言うのが精一杯だった。受話器をフックにかける。
 この結末を予想していたのに、覚悟はしていたはずなのに、一筋だけ涙が零れた。


「オレンジフィルムガーデン」第13話 



 今日は午前中からずっと雨が降り続いていて、放課後となった今も止む気配はない。梅雨が明けるのは、もう少しだけ先のことになるらしいと、ニュースキャスターが言っていたのを思い出す。
 きっちりと白黒付けようと、昨日ヒロによく似た女の子を見た場所へと向かう。しかし、意気込んでみたものの、いざそこへ向かうとなると、途中で何度も引き返したい衝動に駆られた。それでも、なんとか昨日の交差点まで行く。ちょうど、通りを見渡せる位置にコンビニがあったので、そこで立ち読みをするフリをしながら彼女が現れるのを待った。
 この期に及んで、僕の心はまだ迷っていた。自分はどっちを求めているんだろう。
 現れて欲しいのか。
 現れて欲しくないのか。



* * *



オレンジフィルムガーデン



§第13話§



* * *



 コンビニに立ちつくして三十分。彼女らしき人物は、一向に現れる様子はなかった。雨脚は強くなる一方で、通りを歩く人の数自体が少ない。その殆どが、スーツを着たビジネスマンか、買い物に行く主婦である。時折、ワイワイと会話をする学生の集団が通り過ぎるが、その中には彼女の姿は見えない。
 これだけの雨が降っているのなら、車やバスで帰ったかも知れない。いや、きっとそうだ。
 いつの間にか、そうやって自分自身に言い聞かせようとしている自分に気付く。真実を確かめたい。けれど、確かめるのが怖い。
 僕はただ、ヒロと一緒にいたいだけなのに、何故こんな事をしているんだろうか。果たして、この行動に意味はあるのか。
 感情が、バラバラだ。何をしたくて、何をしたくないのか。輪郭がぼんやりとして、境界が歪んでいく。
 今日はもう帰った方がいいかもしれない。
 そう決めて、長い間持っていた雑誌を棚に入れたときだった。
 ガラスの向こう側で、水色の傘を差した女の子が通り過ぎたのを見た。
 慌ててその子を目で追う。ほんの一瞬だけ見えた横顔は、あの子によく似ていたような気がする。
 僕は弾かれたようにコンビニを出た。傘立てから自分の傘を抜き取り、前方で揺れる水色の傘を追う。昨日見失ってしまった角を曲がり、怪しまれないように距離を置きながら様子を伺う。直接彼女に詰め寄れば、その正体ははっきりするのだが、出るかも知れない結論がたまらなく恐ろしい。
 道路には至ることころに大きな水たまりが出来ていた。けれどそれを器用に避けられるほどの冷静さは今の僕にない。足下はずぶ濡れになり、靴下にまで雨水が染みこんでいる。
 周囲の建物に見覚えがあるような気がしてきたのは、五分ほど歩いてからだ。何となく見たことのあるような風景が続く。住宅地の真ん中に建つ神社。大きなジャングルジムがある公園。広い駐車場。
 一緒になって、思い出が呼び起こされる。
 夏になるとアイスを買って神社の境内で涼んでいたこと。ジャングルジムから落ちて足を挫いたあいつを、おんぶして家まで帰ったこと。広い駐車場でよくバトミントンをしていたこと。
 そんな古い記憶達が、さらに僕を狼狽させる。いや、まだ分からない。偶然かもしれない。そう、たまたまこっちに用事があって歩いているのかもしれない。そうやって、際限なく浮かび上がってくる嫌な考えを、一つずつひねり潰していく。それでも、スピードが間に合わない。嫌だ、認めたくない。認めたくないっ。
 いっそのこと逃げ出してしまおうかと考えた。限りなく疑わしくとも、まだ決定的な結論が出たわけではない。今引き返せば、まだヒロのことを信じていられるかもしれない。必死で自分の考えを押し殺せば、何事もなかったように彼女と過ごす毎日に戻れるかもしれない。
 しかし、水色の傘を構える彼女はそんな考えを裏切るように、とある家に入っていった。小さな庭がある白い壁の家へ。
 その家を、知らないわけがない。何度も何度も、足を運んだことがある。
 ふらふらと、吸い寄せられるように彼女の家の前に立つ。この期に及んで、僕はまだ可能性を探していた。彼女は引っ越したかも知れない。それで、彼女が住んでいた家にたまたま彼女によく似た人物が越してきたのだと。そう考えることが、できなくもなかった。
 郵便受けの上に貼られた、家の表札に目をやる。アルミのプレートに、左側に彼女の家の名字、その右側には全員の名前がゴシック体で書かれていた。
 書かれた名前は四つ。親御さんと、少し年の離れた兄。そして一番下には、
「……岡本、千尋」
 ヒロの名が、確かに記されていた。
 肩に食い込む鞄が重い。雨を受ける傘も重い。水を吸った靴も重い。そして僕自身の頭も、心も、身体も重たかった。

 家に帰ると、ずぶ濡れだった僕の姿を見て母親がすぐにシャワーの用意をした。僕は言われるままに熱いお湯を浴びて、着替えに袖を通して、そして自室のベッドの上に倒れ込んだ。
 もう、何もする気が起きない。
 何を信じればいいのか分からない。
 布団の上で、考えることも、感じることも全て放棄した僕は、意識を失うように夢の中へと落下していった。



「あ、やーっと来た。もう、昨日といい今日といい、遅いよユキ」
 目の前にはヒロがいる。いや、お前は本当にヒロか?
「……あれ、今日も怖い顔してる」
 いつもなら軽快に笑い返してやれるセリフが、今は全く浮かばない。
 目の前にいるヒロはどう見てもヒロで、誰がどう見たってヒロで、……けれどヒロであるはずがない。
――お前はいったい何者なんだ?
 その一言を口にするのは、底知れぬ勇気が必要だった。聞いてしまえば、おそらく全ての決着は付く。付いてしまう。
 せっかく再会した初恋の相手も、消えることの無いと信じていた絆も、二人で過ごしてきた日々も、全て、まるで夢のように消えてしまう。
 まだ間に合うかも知れない。それこそ死にもの狂いでヒロを肯定すれば、しっかりとヒロの存在を確かめることが出来たのなら、まだ間に合うかも知れない。
「ねえ、ユキ。本当に大丈夫?」
 だから僕は、心配そうに顔を覗き込んできたヒロを、
「――きゃっ」
 強引に抱きしめて、地面に押し倒した。
 黒い瞳がこぼれ落ちんと言わんばかりに広がる。桜色の唇が何かを言おうと震える。
「……これって、もしかして千尋ちゃん貞操の危機ってやつ?」
 ヒロはそう、ふざけるように、諦めるように、全てを悟ったかのように、小さく笑う。
「だとしたらどうする?」
「……いいよ、ユキなら」
 そう言って目を閉じた。それを合図に、僕は強く唇を重ねた。

 僕は、しっかりとヒロの存在を感じたかった。お前はちゃんとここにいるんだと、そう信じたかった。
 けれど、いくら汗ばんだ肌に口を付けても、身体を重ねても、全てが嘘ごとのように思えて仕方なかった。まるで現実の世界を眺めているかのように。
 自分を偽って、周囲の流れにできるだけ合わせるようにして、傷つけずに、傷つかずに、そう構えて。でも、そうしたって、結局は周囲を傷つけ、そして自分自身も傷ついている。いつも自分を騙して、その事実に気付かないフリをしていたのだ。
 今、腕の中にいるヒロは、何かに耐えるように全身を強張らせ、背中に回した腕にグッと力を込めて、時折喘ぐように「ユキ……ユキっ」と僕の名を呼ぶ。
 僕は、知らず知らずのうちに泣いていた。一度流れ始めた涙は、堰を切ったかのようにあふれ出す。
「……俺を不安にさせないでくれ」
 聞こえるか聞こえないかの曖昧な声が、思わず口から漏れた。

 今はただ、心が痛い。


「オレンジフィルムガーデン」第12話 



 最初に処方された睡眠薬が、一週間ほどで早くも底をついた。短い期間で「また薬を処方して下さい」などと言えば当然怪しまれる。薬を頼らずに寝ることを試みてみたが、僅かほどの眠気もやってこなかった。眠れぬ夜は、苦痛でしかない。小さく膝を抱えて僕が現れるのを待っているヒロの姿を想像すると、僕は居ても立ってもいられなり、余計に目がさえてしまった。
 暗い部屋の中、僕も膝を抱えてうずくまる。
「ヒロ、今行くから……」
 そう呟いている内に、夜が明けた。



* * *



オレンジフィルムガーデン



§第12話§



* * *



 結局その日の放課後、病院に行くことにした。薬を貰っても不自然じゃない理由を必死で考えて、副作用が原因で体調が優れない、だから薬の種類を変えてくれ、そう言おうと決めた。実際に医者の前でそのことを説明し、体重がごっそりと落ちたことも告げる。そうすると、以前に来たときと比べると幾分痩せこけた僕の顔を見て、医者は別の種類の睡眠導入剤を処方してくれた。ただし、「少しだけこれで試してみて」と、少量の処方であったことが僕を悩ませた。
 薬を受け取り、次に行くときの言い訳を考えながら家へと向かう。病院は僕が昔通っていた小学校に近く、多少は町の景色も変わってしまったとは言え、周辺の地理は十分に理解できた。
 川沿いを歩き、小さな駅を通り過ぎる。その先を走る国道を横切ろうと、横断歩道で信号が変わるのを待つ。
 道路の向こう側の歩道を、セーラー服を着た髪の長い女の子が歩いていた。今時、多くの高校は僕の通う高校と同じようにブレザーで、だからそのセーラー服を物珍しい気持ちで眺めていた。
 よく見ると、その子は誰かに似ているような気がした。
「……ああ、ヒロに似てる」
 そうだ、彼女はヒロに似ている。そっくりだ。

……ヒロに似ている!?

 それに気付いた瞬間、背筋を冷たい汗が流れた。慌てて、道路の向かいの彼女を観察する。くりっとした大きな目に、微かに幼さの残る顔立ち。髪はあの頃と違って胸の辺りまで伸びているが、そんなのどうにだってなる。
 いつも会っているヒロとは、微妙に違う。ヒロの方が、もっと童顔だ。けれども、これは他人の空似で済ませられる次元ではない。それくらいに似通っていた。
 ヒロに、妹が居るなんて話は聞いたことがない。親戚かもしれないとも考えたが、それにしたって似すぎている。今すぐ駆けていって彼女に直接問いただしたい所だったが、信号はずっと赤のまま変わらない。今か今かと待っている内に、彼女はどこかのビルの角を曲がっていってしまい、その姿も見えなくなってしまった。
 少しして、信号が青に変わる。慌てて彼女の曲がった道へと走るが、全身が怠くて思うように前へ進めない。その道の前に出たときには、もう彼女の姿はどこにもなかった。
 とにかく、頭が混乱していた。何年も会っていないとは言え、初恋の相手を忘れるはずもない。あの子はヒロ……だと思う。ただ、夢の中に現れるヒロとは微妙にズレている。しかし、無視しても構わない程度のズレのようにも思える。
 道の真ん中で、僕はただ立ちつくす。

――彼女はいったい、何者だ?



 二日ぶりに夢の中へと戻ってくると、ヒロは斜面に足を投げ出して、川の流れる様子を眺めていた。僕がゆっくりと近づくと、短い髪をさらさらと揺らして振り返る。
「ユキっ!」
 満面の笑みを浮かべたヒロが、こっちへ向かって走ってくる。そして両手を広げて飛びつくように抱きついてきた。その勢いを受け止められずに地面に倒れた。
「何してたのよ、もう。ずーっと待ってたのに」
 僕の胸の上で、はっしゃいだ声を上げる。
「ごめん、ちょっと色々とあってな」
 僕がそう返すと、ヒロの表情がふっと険しくなった。
「……ユキ、どうしたの? なんか、怖い顔してるけど」
「そうかな?」
 ヒロの顔をじっと見返す。目の前に居る女の子は、確かに小学校の頃のヒロと同じだ。こぼれ落ちそうな大きな瞳も、幼い少年の雰囲気を併せ持ったあどけない顔立ちも、耳が見えるくらいに短くされた髪型も。誰が見ても、これはヒロだと、そう思うだろう。
 しかし、逆にそれが不自然にも思える。あの頃のヒロをそっくりそのまま持ってきたかのような、イメージの中のヒロをそのまま背丈を伸ばしたような、そんな出で立ちだ。
 勿論、成長しても容姿が殆ど変わらない人だって居る。そう考えれば、不思議ではない。しかし、今日町で見かけたあの少女と比べてみると、目の前のヒロは完璧すぎるくらいにヒロだ。そこに、微かな違和感が存在する。

『ユキが信じ続けていれば、ここはなくなったりしないよ、絶対に』

 かつてヒロが口にしたセリフが、警鐘のように頭の中で響く。そうだ、疑ってはならない。疑念を抱いてしまえば、この世界は閉じてしまう。今僕が信じるべきなのは目の前にいるヒロであり、守るべきなのは二人の時間だ。
「…………ユキ?」
 ヒロが、恐る恐るといった様子で、再び僕の名を呼ぶ。だからそんな不安を取り除くように、優しく頭を撫でてやった。
「大丈夫、なんでもないって」
 くすぐったそうに目を細めるヒロが、そこでようやく笑った。そう、これでいい。こいつが笑ってくれてさえいれば、僕は欲しい物なんて無いんだ。決して我が儘な望みではない。だから、これくらいは守らなければ。



 そうやって自分を納得させたつもりだったが、いざ目を覚ましてヒロが居なくなると、猛烈な不安に襲われた。町で見かけた女の子のことを、他人の空似だと言い聞かせても、「そうじゃないだろ? それだけじゃないだろ?」と冷たい声で囁きかけるもう一人の自分がいる。
 いくら耳をふさごうとしたって、疑うな、考えるな、と言い聞かせることは、疑っている、考えている、ということと同義だ。
 ただでさえ不安定だと言った夢の世界。この不安のせいで崩れたりするのではないか。そう危惧した僕は、たっぷりと考え込んだ末に決断した。もう一度、あの子を見てみるべきだ、と。